試みるが火が付いたような痛さで力を込めてふんばることができない。引き倒されると後は散々に蹴られた。脇腹や背中を何十本という足が蹴ってきた。エビのように身を丸めて耐えるしか手はなかった。『どすどす』という蹴る音が頭の中で鳴り続けていた。自分の体が発する音とは思えなかった。
興奮した男達は兼茂を蹴ることを止めなかった。兼茂は地面を転げ回り足から逃れた。
薄れ始めた意識の中で、「やめよ」と命令した声が聞こえた。と同時に兼茂の意識は完全に途切れてしまった。
冷たい水を含んだ手ぬぐいが、熱を持った頬を心地好く冷やしていた。知らないうちに顔面も蹴られていたのだろう。
少し前に意識が戻った兼茂は、やさしそうな老婆の介抱に身をまかせていた。
「散々だったよ」
照れくさそうに兼茂は言った。口の中も切れているのか、口を開くと痛みを感じた。
「そうだね、ちよっとばかり無茶だったかもしれないね。でも、この程度で済んでよかったんじゃないかい。本当なら殺されてもおかしくなかったんだよ。骨くらいは折れているかもしれないよ、どうだい」
口を開いた老婆には、数える程しか歯はなかった。
所々痛みがあるが、骨が折れているようではなかった。兼茂はほっとした。
「お腹が空いていたから力が出なかったんだよ。朝から何も食べてないんだ」
老婆は兼茂の負け惜しみとも取れる言葉に嬉しそうにうなづくと持っていた行李をほどき、荷物の中から干物を出して兼茂に手渡した。
「これから市に行って交換しようと思ってたのさ。こんな物でよかったら食べな。でもここじゃ炙ることもできないね」
「いいさ、干物なら火を通さなくても」
そう言うと兼茂は干物にかぶりついた。塩がきいており、怪我した口の中は火が付いたように痛んだ。その痛みを無視して食べ続けると口の中が痺れて不思議と痛みは薄らいできた。
何の干物かはわからなかったけれど、まずくはなかった。
「どうして牛車なんかに近付いて行ったんだい。見たかったのはわかるけれど、身分が違い過ぎるよ」
そう言うと老婆は兼茂をまじまじと見た。
「おや、あんたもよく見ると私たちとは違うみたいだね。着ている服も所々破れてはいるけれど、立派な物だね。あんたも貴族じゃないのかい。あんたみたいなお偉い身分の人が喧嘩なんかしちゃいけないよ」
兼茂がそれなりの身分の貴族の子だというのがわかった途端、老婆は兼茂に対する興味が無くなったのか、それとも関わり合いになることを恐れたのか、礼を言おうとした兼茂を無視し、足早にその場を立ち去ってしまった。
一人残された兼茂は道の向こう側に脱いであった上着を取りに行った。体の節々が悲鳴を上げているようだった。
うまい具合にいざこざが起こる前に上着は脱いでいたので、所々破れた服の上から上着を着ると何もなかったように見えた。問題は顔の腫れである。熱を持ったように暑くジンジンと痛んでいた。少し青痣になりかけているのかもしれなかった。
人気が無いのを確認し、抜け出た時のように裏口から屋敷の中に入った。体を曲げると踏ん張る足に痛みが走る。幸い厩には人のいる気配はなかった。床下を通り抜けることは諦めそのまま屋敷の正面に回り込むことにした。途中にある井戸の水で顔を洗った。かなりしみる。講義は既に終わっているのかいつも通りの静かな屋敷に戻っていた。
部屋に戻ると冷めた朝食がそのまま置いてあった。多分賢子が気を利かせて置いておくように言ってくれたのだろう。
ひめ飯も冷めて堅くなっているし、汁物も冷めたくなっていた。お世辞にも食欲をそそられるような代物ではなかった。老婆からもらった干物の味が思い出された。その干物の方が何倍も美味しそうに感じた。しかし、若さとは腹を空かす事なのかもしれない、とりあえず食べ物を見るとお腹の空いていた兼茂は急いでそれらをかっこんだ。
噛むと顎の辺りが痛むし、飲み込んでも脇腹の辺りが痛んだ。それでも兼茂は食べ続けた。ちょっとの痛みで食べることまで放棄することは兼茂にとって完全な敗北を意味していた。
「もっとゆっくりお食べ下さい」
賢子の声が頭の上から聞こえてきた。少し遅れていつものようにえび香の香りが漂ってきた。
よっぽど空腹だったんだろう。賢子が部屋の前まで来ていたことも、えび香の香りが漂っていたことにも気付いていなかった。
賢子のを見るために顔を上げた。途端に賢子の顔が『ぎょっ』っと幽霊を見た時のような顔に変わってしまった。血の気が引いていくのがおもしろいようにわかった。膝に力が入らないのか賢子は柱に手を付いた。その手も小刻みに震えていた。
賢子の様子が物語るように多分、兼茂の顔は物凄い形相に変わっているのだろう。
「兼茂どの、一体どうなされたのですか」
目を大きく開いたまま賢子がたずねた。声も震えていた。
「どうしたって。一体何のことです」
しらばっくれても仕方がない。だが、どのように答えていいのかもわからなかったし、一部始終を話すなんて邪魔臭かったのでとぼけておいた。
「兼茂どののお顔が、とても変です。朝とは大違いです。百姓どもの仕業でしょう。ですから百姓などという身分の卑しい者と付き合うことはお止め下さいと申し上げたのでございます。道真どのに申し上げて成敗してもらいましょう」
賢子はいつものように百姓と遊んでいて、それが原因でこのようになったと思ったのだろう。牛車の侍従にやられた事がわかるよりはましである。でも、このままじゃ川沿いの百姓はとんだ目にあうだろう。
「違うよ、ぼくが勝手に転んだんだよ。土手から一気に河原まで転んでしまったんだ。今日は馬を使えなかったから、川沿いの百姓の所までは行けなかったんだ」
貴族の子が百姓を庇うなんてことは絶対にありえない。そう思い込んでいる賢子にはそれ以上の原因は思い付かなかったようで、疑ってはいるようだったけれど、それ以上の詮索はなかった。
「ともかく、誰か呼んで手当てをさせます。それから、今日は絶対に外出をしてはなりません。衍子(えんし)さまと寧子(ねいし)さまがおいでになられます。お二人ともとても兼茂どのにお会いになりたがっているご様子です」
衍子と寧子は兼茂の妹にあたる。一緒にこの屋敷の中で生活しているわけではないが、二人とも兄の景鑑、景行よりも兼茂を好いていた。だからというわけではないが、兼茂も二人を特別可愛いがっていた。時々、今日のように乳母に連れられて兼茂のところにやってくる。そんな時、兼茂はすごろくや人形遊びを二人が満足するまで一緒にしてあげるのだった。
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